金錫寺

縁起



河清山 金錫寺は臨済宗建長寺派に属する寺院です。

歴史
嘉暦2年(1327) 古心祖鏡禅師を開山とし、足利義満公を開基として建立された。
【開山】
古心祖鏡禅師は明州(現在の中国 寧波)の出身。文保2年(1318)来日し、正中元年(1324)9月に赤沢の地に至り、「河北禅林」と称し、嘉暦2年に梵刹を創立する。貞治5年(1366)示寂。
【開基】
足利三代鹿苑院太政大臣准三宮義満公 当寺二世 大陽天宗禅師は足利氏の出身であり、義満公と縁故の人であったため、義満公がこの地を訪れ休宿した。その際、武運長久、国土安穏を祈念し、寺領十石を賜り佛供料とした。その縁をもって、その後義満公を開基とした、と寺伝にある。
【原市場地区の本寺】
金錫寺は江戸時代末期まで、旧原市場村(現在の飯能市赤沢、原市場、赤工、中藤各地)に点在する寺の本寺であった。
   
地区詳細地区寺名
赤沢 鹿戸 円光寺(跡地に墓地あり)
赤沢 - 勝輪寺
(旧赤沢小学校は勝輪寺境内地。跡地に墓地あり)
赤沢中屋敷 本願寺(跡地に墓地あり)
唐竹 - 瀧向庵(江戸末期廃寺)
原市場 石倉 大千庵(江戸末期廃寺)
原市場 石倉 医王寺(現存)
妻沢 - 天通庵(江戸末期廃寺)
上赤工 - 東演寺(明治期神葬式へ転向)
中藤上郷 - 養福寺(現存)
中藤中郷 - 観瀧寺(江戸末期廃寺)
中藤下郷 - 平蔵寺(江戸末期廃寺)
中藤下郷 - 円通寺(明治期廃寺。跡地に歴代墓、石垣あり)

以上の末寺は明治政府の廃仏毀釈政策等により、医王寺、養福寺、円通寺以外は廃寺(現在は円通寺も廃寺)。壊された寺の仏像の何体かは本寺の金錫寺に避難した。顔をけずられ炭となった仏像などが現存する。
本尊
【地蔵大菩薩】
定朝の作。地蔵菩薩の持つ「つえ」を錫杖(しゃくじょう)という。「金錫」とは金の錫丈を持つお地蔵様がいらっしゃる処という意味です。
寺宝
【宝冠釈迦如来像(飯能市指定文化財)】
市教育委員会では釈迦如来像としているが、寺では正(聖)観世音菩薩と伝えている。中藤下郷にあった大慈山 円通寺の本尊で、弘法大師作とされている。円通寺が廃寺になる際、本寺である金錫寺に預けられたものである。
ある時、鎌倉幕府 北条家の家臣済田秀員という人が国家のため巡回して秩父から当地に至った。その夜、強賊に逢い、一草庵にこの尊像があるをみて一心に誓って祈念するとその賊は退散した。この霊験を執権 北条時頼公に言上すると、公は深く感信し、佛供料三石を寄付した。その後、応永2年(1395)に加持修理し、寺院を再営したと寺伝にある。
「本像は、檜材の寄木造で 〜(中略)〜にぎやかな装飾趣味は宋風彫刻の影響といわれるが、この像のさらに大きな特色は、法衣を台座したまで垂らす法衣垂下(ほうえすいか)という様式である。
建長期(13世紀中頃)以後、鎌倉を中心とする関東彫刻界の新しい動きから生まれた法衣垂下像は、当時の禅宗の地方普及の波に従って、関東の一部に流行した特色のある彫刻である。しかも、14世紀の後半から15世紀頃までに、鎌倉の宅間ヶ谷の宅磨派系仏師の手になるものとされ、中世の鎌倉と飯能地方の交流を物語る貴重な仏像といえよう。」
【「飯能の指定文化財 (飯能市教育委員会発行)」 より一部抜粋)】
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